■1915年(大正4年)

3月4日岡山県邑久郡裳掛村(現瀬戸内市)虫明に生まれる。

旧名は横山 知(さとし)呉服商を営む父横山為太、母阿具里の長男。

■1927年(昭和2年)

村立裳掛尋常小学校を卒業。

旧制岡山県立閑谷中学校に入学。

■1932年(昭和7年)

閑谷中学校を卒業。

上京し、日本大学歯科医学校に入学。

■1934年(昭和9年)

模型飛行機店の店主と合作したボート用スチームエンジンが50円で海軍省に買い上げられる。

その金でドイツ製カメラのベルケオを購入。

■1936年(昭和11年)

日本大学歯科医学校を卒業。

歯科医師国家試験に合格し東京蒲田の総合病院に勤務。

■1937年(昭和12年)

郷里へ戻り岡山駅近くに「横山歯科医院」を開業。

その後、写真撮影を再開。ミノルタ二眼レフカメラを購入。

■1939年(昭和14年)

緑川洋一の名で写真雑誌の月例懸賞に応募を始める。

「写真サロン」12月号月例A部で(静物)が入選7席となる。

石津良介の紹介で「中国写真家集団」に参加。

■1940年(昭和15年)

「写真サロン」9月号の第90回月例A部懸賞で「驟雨去りて」が入選1席、同11月号の第92回で「静物」が佳作となる。

■1941年(昭和16年)

「写真サロン」第94回月例A部門懸賞で「ポートレート」が佳作となる。

「写真文化」9月号に組写真「石の出る南の島 瀬戸内海(北木島)」を発表。

■1943年(昭和18年)

大森一夫と二人展「農村の記録 二つの農法」(千代田商会・東京)開催。

■1944年(昭和19年)

「写真科学」2月号にドキュメンタリー(記録写真の技術研究 二つの農法)を発表。

「興亜写真報国会」の仕事で出征兵士家族の写真を撮影。

■1945年(昭和20年)

1月3日長女・瑞子が誕生。岡山連隊区司令部の報道班を結成。班員となり歯科医師の傍ら被災状況などを撮影。

岡山市内で街頭写真展「銃後の生活」を開催。敗戦を迎え、戦災写真のネガを司令部の命令ですべて焼却する。

■1946年(昭和21年)

石津良介と写真工房を開設。装飾額入り写真を作り、店舗などに貸し出した。

戦時中に岡山城を撮影した写真で個展「思い出の烏城」(天満屋・岡山)を開催。

8月17日長男皓一が誕生。

■1947年(昭和22年)

石津良介の紹介で植田正治とともに東京の写真家集団「銀龍社」に参加。

■1949年(昭和24年)

3月1日父為太が死去、享年70歳。

「第1回銀龍展」(日本橋三越・東京)に出品。

10月21日次女祥子が誕生。